歴史

 奈良時代の養老ようろう元年(717)今から1294年前の創建で、三論宗さんろんしゅうの僧恵泰けいたい生城おうぎ山の西麓せいろく志和西の山間(現在も善正寺の地名がのこっている)に一宇いちうを建立して龍城山善正寺と称していたのに始まるという。

 その後平安時代に三代の僧恵海けいかいのとき真言宗に改め、同時代の元慶がんぎょう元年(877)五代の僧恵長けいちょうの時、智証大師ちしょうだいし帰依きえして天台宗に改宗した。  その後当山住職の勧請かんじょうにより境内に天神をまつり、神仏両方をもって安全祈祷きとうを行なっていた。
この善正寺天神はその後志和神社に合祀ごうしされた。

くだって室町時代の文明ぶんめい十二年(1480)三十五代の僧周恵しゅうけいの時、本願寺蓮如上人に帰依し真宗に改宗した。天文てんぶん年間、生城山城主天野氏の菩提寺となり、長松の地を寺領じりょうとして与えられすこぶる優遇された。

 安土桃山時代の天正てんしょう十六年(1588)寺領長松の地(当時は志和西分)に移転し、龍城山長松寺と改号した。 当時の僧善教をもって長松寺第1代住職とする。

 江戸時代の享保きょうほう十年(1725)9月、第五世可難の時堂宇どううが破損したため、当寺と縁故の深い長松の黒川了甫りょうすけが私財を投じて本堂を再建した。
爾後じご当時の修繕費は志和西村民の負担であったが、江戸末期には村費でまかない。 また葺草ふきぐさ山という寺領山がありこの山の収入によって屋根を修繕した。

 明治15年に地籍分合ちせきぶんごうがあり、長松の地は志和東村に編入された。自然じねん長松寺と志和西村との関係が疎遠となるため、志和西村民の要望もあり、第十三世住職川野存応のとき、明治24年8月14日付で広島県知事の許可をえ、現在地八条に移転したのである。

 昭和28年本堂の屋根を総瓦とし本門も修理した。第十六世住職中田珠教は布教のかたわら、町内では他に先がけて、保育園(龍城山保育園)や老人クラブ(龍城山長寿会)を開設した。 毎月子供会も開設、昭和24年1月からは本堂を志和西公民分館としても使用していた。

 第十七世中田輝之は中学校教員を勤めながら法務や地域コミニュティに勤しみ、志和西盆踊りや志和扇やっさ連等のリーダーとして地域文化振興に貢献した。

 現第十八世中田輝道となり、長松寺復興という先祖の意思を実現させるために全国に出向いて布教活動を行う。その結果、平成9年2月2日千葉県君津市 山田幸雄、法子夫妻の寄進により親鸞聖人の銅像が境内に建立された。
 続いて平成9年10月、住職の志に賛同する有志の寄進によって経堂を改築して納骨堂「郁珠堂あやじゅどう」を開設した。
 平成10年、兵庫県尼崎市廣瀬家等の寄進によって山門を修復し参道や境内の環境整備が行われた。
 平成15年、京都市左京区佐脇家の支援によって保育園の園舎が新設された。
 平成16年7月16日、落雷によって本堂が火災、平成16年9月18日には台風によって庫裏の屋根が飛ばされる被害があったが、本堂・庫裏建物共済からの保険金捻出や御門徒の寄附により平成18年に本堂(内陣含む)や庫裏の修復が完了した。
 平成24年2月、門信徒の「ありたいお寺」を目指して「長松寺門信徒会」が発足した。

 長松寺の歴史は古く境内は385坪で、本堂及び山門は享保十年(1725)のもので299年経過している。